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人類の利益のために行われる許された殺戮

日常

早朝の電話で目が覚める。普段は寝るときは消音にしているが、前日に容体が悪いサルがいるときには、いつ呼び出されてもいいように、着信に気づくようにしている。

 

やはり、という気持ちでラボに向かう。

 

世界最高レベルのバイオセーフティレベルが認められたこの施設では、死に関わる程度の重篤な病気を起こし、容易にヒトからヒトへ感染を起こし、かつ有効な治療法・予防法は確立されていない毒性や感染性が最強クラスの病原体を扱う。もちろん、この施設に入れる人間も専門的に教育されたごく少数の研究員に限られている。

 

全裸になり、薬液シャワーを浴び、手術着の上から効果の異なる2重の防護服とシールドをかぶる。防毒マスクを装着すると、呼吸に合わせて完全排気システムのファンが作動し、自分の呼吸音さえ不気味な工業音に変わる。全く窓のない、巨大な施設の中は細かく仕切られ、その仕切りは潜水艦の扉にそっくりな厚さ30センチを超える完全機密性を持つハッチが取り付けられている。危険な病原菌を外に漏らさないために常に内側の扉が陰圧になっており、ハッチを開ける際には、扉に取り付けられている圧力メーターで確認する。私は、固く締められたハッチーのレバーを何度も手で回して重い扉を開けて進んでいく、手術室に行くまでには7枚ものハッチを開けなくてはならない。手術室に着くころにはレバーの回しすぎで、手が少し痺れている。

手術台の上にはガリガリにやせ細ったNo.706の姿がある。すでにケタキシで浅い麻酔はかけられているが意識もあり、目も見えている。ぼんやりとした目でNo.706は見慣れた私の姿を認めて少し安心したような表情を浮かべる。

「では、始めます」

私はアシスタントに指示を出し、No.706を文字通り切り刻んでいく。チタン製の開胸器で肋骨を取り除き、今後の実験の精度のため、ぎりぎりまで、生かしたまま、すべての臓器を取り出す。肺、腎臓、肝臓、すい臓、結腸、大腸、小腸、膀胱、精巣、それらを生理食塩水の入ったバイオパックに保存していく。心臓しか残っていない空っぽな身体になったNo.706はそれでも生きている。最後に動脈をカットし、体中の血を抜いていく。失っていく血と共に急激に体温が下がっていくのがわかる。

 

「摘出が完了しましたので、麻酔量を致死量でお願いします」

 

そう言って、私は、No.706の首の後ろに手を差し入れ、上半身を起こさせ、一つだけポツンと残った心臓を何度も押して最後の一滴までその血を回収しようとする。私に支えられた頭をこちらに向けたNo.706のその目からは悲しみも苦しみも感じられず、今までと同様、まっすぐな目で私を見ている。このとき、憎しみと怒りに満ちた目で私を見てくれたのなら、私を憎み、私に咬みつき、私を殺そうとしてくれたなら、どんなに楽なのだろう。

 

絶対に動けないほどの麻酔を自ら投与しておきながら、そんなエゴ丸出しの私の願いなど一生かなえられることはない。

 

来た道と同じように連なる重いハッチを開けて、私を守る重い装具をすべて脱ぎ捨てて全身を滅菌し、外に出る。空を見上げると星が輝いているのが見える。私は急にあの人に会いたくなる。

生き物の命を奪う殺戮者でもある私を、

「許す」

と、あの思慮深く静かな口調で言ってほしい。

片手にメスをもった私の全身が赤黒い血で足元から覆われていく悪夢をみる私の横で、

「あなたはちっとも汚れてなんかいないです」

と、あの人の包み込むような穏やかさで言ってほしい。

 

スマホを取り出して、彼の電話番号を表記させる、時刻は深夜を回っており、私はついに発信ボタンを押すことができず、そのまま空を仰いで目を閉じ、冷たい外気が私の肌を包んでいくのを静かに感じていた。

不屈の忍耐力の代償

久しぶりに会うあなたは小さな男の子のような屈託ない満面の笑顔で私に笑いかけるけど、その顔には、疲労が色濃く影を落としていることに私は気づいてしまう。

私よりも年若いあなたの短く整えられたその髪の毛の中に何本もの白い髪の毛が見える。

「白髪増えたんじゃないの」

「そんなことないよ」

あなたは少し拗ねるような表情を浮かべながら大きくて肉厚な手で頭全体をなでる。

「そう」

私はあなたから視線を外し、そんなことあまり興味ないけどという素振りで、運ばれてきたコーヒーカップに目をやる。少し青みがかった白い陶器のカップとソーサーには植物のつたようなものが地模様で入っており、持ち手はまるで猫足の家具のような美しい曲線を描いていた。あなたと向かい合うテーブルは淹れたてのコーヒーの甘く官能的な匂いが充満していく。私は眩暈を感じ、一瞬まぶたを閉じる。その眩暈があまりに甘美なその香りのせいなのか、久しぶりに私の目の前にいるあなたのせいなのかがわからなくなる。私はゆっくりと目を開けてカップにゆっくりと口をつける。

「すごくいい香り、そして苦みを甘みのバランスも私好み」

あなたも自分のコーヒーを味わおうと、持ち手に指を通そうとしている

「僕の指は太いからこのカップの持ち手には入らなかった」

といって少し恥ずかしそうに、彼の手に持たれるととても小さく見えるそのカップを包み込むように持ってコーヒーを口に運ぶ。その時、私は、彼の右手の人差し指の第3関節の部分と第2関節の間に深く大きい胼胝腫(たこ)を見つけ、真顔で彼の目をみる。

「どうしたの、その右手のたこ」

「え?なにが?わからないよ、昔の傷跡かな」

そういって、カップを置いてもう片方の手でその部分を隠す。私は、テーブルに置かれた彼の右手首を掴んで、彼の目の前にその部分をしっかりと見せた。

「何をごまかしているの。私に隠そうとしても無駄よ。これが昔の傷跡じゃないことくらい一目見ればわかる。第3関節の上のタコは殴りダコ?吐きダコ?よくわからないのは、この第2関節の少し下にあるタコ、こんなところにこんなに大きなタコができるなんて、一体なにをしているの?」

あなたは掴まれた手を振りほどいてから、そのタコを左の指でさすった。

「噛んでいる」

「なんで」

「何日も眠れないことが多い仕事だから、大事な任務の時なのに立ったまま寝そうになったりするから、この部分を何度も強く噛んで眠らないようにしている」

「いつから」

「幹部になった頃、10年くらい前から」

「そう」

あなたは、そのふっくらとした下唇の右側を少し噛みながら目を伏せている。私は、あなたをすぐにそんな環境から救い出したいという激情に駆られるけど、きっとあなたは救い出されることなんて望んでいない。

「あのね、何日も何日も眠れないときは、絶対に眠らないように我慢するよりも、一瞬だけ座って3分でも寝ると脳が休まって、また考えられるようになるのよ。3分くらいあなたにだって与えられるでしょう。」

「そうだね、今度、トイレで実践してみる」

そう言って、精悍な顔立ちに似合わない屈託のない笑顔で私を見る。そんなあなたを見ているだけで、胸が苦しくなってくる。その苦しさから逃れたくて、

「外に出よう」

と私は先に席を立って外に出る。新緑の街路樹と暖かい日の光に包まれた私は、少しずつ胸の苦しさが和らいでいくのを感じた。

第7回

祐太郎と二人になった浴室には祐太郎の嗚咽に近い咳だけがこだまして響いている。

 

その小さな肩は依然として震えており、私は祐太郎が2歳ころから大好きだったアニメの主題歌を何事もなかったかのように、その小さな耳元に口を寄せてささやくように歌い始めた。

 

その祐太郎の大好きなアニメには、毎回、その森に住む友達に意地悪なことをするキャラクターが登場し、その友達が「助けて!」とヒーローを呼ぶと、大急ぎで皆の森のヒーローが飛んできて意地悪なキャラクターを成敗し、最終的には意地悪をしていたキャラクターも、「美味しいものを独り占めしたかった」とか「自分も一緒に遊んで欲しかったのに声をかえてくれなくて寂しかった」など、意地悪なことをした理由を話して、もうしないと反省し、みんながハッピーエンドで終了する子供向けのアニメだった。

 

その主題歌の歌詞はヒーロは恐れずにいつも何事にも立ち向かい、飛んでいけるんだと繰り返す。祐太郎はこの歌がとても好きで、機嫌が良く一人でブロックなどを組み立てて遊んでいるときにはこの歌を口ずさんでいた。

私が祐太郎の耳元でその歌を歌い始めて少しすると肩の震えが少し収まってきたかのように感じた。

 

「祐太郎、私、寒くなってきたからもう一度お湯に入ろうか」

 

というと、祐太郎はコクンと頷いた。祐太郎を後ろから抱きしめるようにしてバスタブに入り、もう一度、そのアニメの主題歌をわざと元気な声で歌い始めると、祐太郎は不思議そうに私の顔を振り返って見ている。

 

その顔には少し血の気が戻ってきたように見えたけれども、私は祐太郎と目を合わせず、少し視線を上方遠くにはずし、バスタブに浮かべてあったアヒルをマイクに見立てて持ち、さらに熱がこめて舞台で歌う歌手のように首を傾げ、体全体でリズムを表現して熱く歌っていると、祐太郎も徐々に体全体で揺らし、途中から一緒に歌い始めた。

 

そうして、祐太郎の体と髪の毛を洗って風呂場を出て、リビングに入ると、ソファに座って天井を仰ぎ見ていた姉が祐太郎と私に気づいてこちらを向く。

「祐太郎、サリーとお風呂楽しかった?」

「うん!たくさん、アリーと、うたったよー」

「そう、よかったわね」

目を細め、慈愛に満ちたまなざしで祐太郎を見つめ、その濡れた髪の毛をやさしくタオルで拭いている。私は先ほど見たことがすべて嘘であるのかのような錯覚に陥った。

「サリー、祐太郎の歯磨きをさせて、寝かしつけてくるわね、そのあと、明日の病院のこととか話そうか」

祐太郎の髪の毛から目を離さず静かに姉が言う。

「ごめん、ちょっと今日は20時から同級生と会う予定なの」

「そう、わかった。じゃあ、帰ってきてからでいいわよ」

と言いながら姉は祐太郎に歯磨きをさせるために、洗面台に向かっていった。

 

友達との約束などあるわけもなかった。ただ、いるだけで何か黒いドロドロしたものに足元から浸食されていくような、この家からとにかく一度抜け出したかった。

私は、2階の部屋に戻り、薄手のコートとスマホをもって外に出た。東北は夜になると5月であっても5度程度まで気温は下がり、玄関の外に出た瞬間、先ほどまでバスタブで温まっていた体全体を冷気が包んでいく。

 

身震いをして、すがるように空を見上げたが、黒い空にはどんよりとした黒い雲が重く立ち込め、夜の空に光と輝きを与える月も星も完全に隠している。寒さでかじかみ始めた手でスマホを取り、佐伯さんに電話をかける。

「ププププ、、、、、、只今、お客様のおかけになった番号は圏外であるか、電源が入っていない、、、」

音声ガイダンスの途中まで聴いてすぐに電話を切った。

 

彼のいる実験室はいつも携帯電話が圏外になってしまうため、彼の実験中はいつも連絡がつかなかった。時計を見ると19時を少し回ったところで、佐伯さんは何か約束がない限りは深夜まで実験室にいることを常としていたらからこの時間帯に何度電話をしてもつながらないことは明白だった。

 

繋がらないスマホを握りしめて、もう一度空を仰ぐ。見上げた空は先ほどと同様の真っ暗な空が広がっているだけだったが、下の方に視線を移すと、空と地上との一部の境がここから数キロ離れた繁華街のネオンのオレンジ色で明るくなっているのが見えた。

第6回

小説

「アリー、一緒にお風呂あいろー(入ろう)」

と一階から祐太郎が私を呼ぶ声がする。階段を降りていくと、祐太郎はもう全身の服を脱いでおり、待ちきれないとばかりにその場で足踏みをしながら私を階下から見つめている。

「はやく、はやく」

と促されて、手を引かれ風呂場へ続く廊下を2人でバタバタと走る。廊下の途中にあるリビングのドアは開いており、そこから姉が少しだけ顔を出して、

「サリー、悪いけど先に祐太郎とお風呂入っていて、私もすぐ行くから」

と言った。私も素早く服を脱いで祐太郎と大人が二人は入っても十分に足を伸ばせる体積があるバスタブに漬かった。ゆっくりと足を伸ばしてバスルームを見渡す。久しぶりに入ったバスルームは私が以前住んでいた頃と変わらず、どこを見渡しても水垢やカビ一つなく、白の陶器でできた床に、真っ白なバスタブが置かれており、その空間はほんの少し塩素系漂白剤の匂いがした。

祐太郎は、水面にお風呂用のアヒルのおもちゃを浮かべて、小さなじょうろでアヒルに湯おの雨を降らせて遊んでいる。祐太郎は子ども特有の毛穴や肌のきめがまるでなく陶器のような白い肌に、栗色でウェーブが強い髪の毛は濡れて、丸く形の良いおでこに張り付いている。

 

「私も入るね」

と言って姉もバスタブに入ってきた。姉が入ってきたことによって湯が溢れる。

「気持ちいい」

と姉はリラックスした表情で、静かに言ってしばらくの間、目を閉じていたが、数十秒後にはふと何かを思い出したかのように目を開き、祐太郎に向かって、

「祐太郎、今日も一緒に数字数えようね」

と言った。祐太郎の表情がその姉の言葉を聞いた瞬間、見る見るうちに暗い影を落としていくように見えた。姉は祐太郎の返事を待たずに、

「1の次はなんだっけ?順番に言ってみようね。そうだ、今日はサリーがいるからサリーに1から10までの数字を教えてあげたら」

その言葉を聞いてやっと祐太郎は少し緊張が解けたように

「うん、わかった」

と言って、その小さな手を湯から出して、指折り数字を数えようと準備をしている。

「1、2、、、、、、うーーん、5?」

私はその一生懸命に指で数字を数える仕草が愛らしくて、微笑みながら、

「2のつぎは3だよ」

と言った。姉は表情一つ変えずに、もう一度1から数えるように祐太郎に言って聞かせている。

「1,2、、、、、、、、、、、、うーん、9、、、3」

姉の表情がこわばっていくのが視界の端でみえ、姉の顔を見る祐太郎の目に怯えるような緊張がうつり、その雰囲気の中で私だけが微笑ましく見ていることに少し負い目を感じ、少し真面目な顔を作り直して、

「祐太郎、1,2,3だよ、そこまで一緒に私と一緒に言ってみようか」

祐太郎のつぶらな小さな瞳に目線を合わせその小さな顔に向かい合うようにバスタブの中での位置を変えて一緒に復唱する

「イーチ、ニー、、、、、、サーン」

「イーチ、ニー、、、、、、キュー?」

その瞬間、先ほどまでバスタブの端に置かれていた姉の細く白く美しい手がまるで白い蛇のように素早く動き、祐太郎の頭を上から鷲掴みにして、祐太郎の顔を湯の中に乱暴に沈めるのが見えた。私には何が起きたのか分からず、姉を振り返った。姉の顔は血の気が引き、その表情はまるで無表情に見え、何を考えているのか私にはわからなかった。私は我に返り、祐太郎の頭を掴んでいる姉の手を掴んで、その頭部を水中に沈めている手を引き離そうとしたが、姉の細い腕からは想像もできないような強い力で頭を掴んでおり、私は両手で姉の手首をつかんでひねるようにして横にずらし、祐太郎の顔を湯から引き上げる。急に水に沈められた祐太郎は湯を飲んでしまったのか、激しく咳き込み、何度もえずいている。急いで彼を抱きあげて、バスタブから引き上げ、抱きしめると咳き込みながらも全身が恐怖で震えているのがわかった。背中をさすって咳を鎮めさせながら、

「大丈夫だよ」

と声をかけたが、祐太郎はその小さな肩が小刻みに震えているだけで何も言わず、私の顔も姉の顔見ようとしない。姉の方を見ると、姉は相変わらず、まるで私と祐太郎が同じ空間にいないかのような冷たく焦点の合わない目で先ほどまで祐太郎がいた湯の場所を見ている。

「ちょっと、お姉ちゃん、なんで、、、、」

私は起きた状況がほとんど理解できず、努めて冷静に姉に問いかけようと思った言葉が上ずった声で発されているのがわかる。動揺を隠せない私を一瞥しても姉は表情一つ変えずに静かに、

「ごめん、私、先に上がるわ、悪いけど祐太郎の髪の毛とか洗ってあげてきてくれるかしら」と言って先にバスルームを出て行った。

第5回

小説

 

祈りの終わった母は、すでに夕食を食べ始めている私たちを無視するかのように、

「さあ、いただきます」

と、はっきりとした声で誰に向かって言うのでもなく宙を見つめて言った。

祐太郎は、夢中で夕食を食べ続けている。この子はまだ弱冠の4歳であるにも関わらず、ものすごい食欲で大人である私たちと同量かまたはそれ以上に食べることもあった。そのせいか、身長も確かにかなり大きいのだが、その肉付きは肥満とまではいかないまでも太り気味であることは確かだった。母はがつがつと夕食を頬張る祐太郎を見て、

「祐太郎、美味しいのね、喉に詰まらせないようにゆっくり食べなさいね」

と言う。その表情には優しげな微笑みさえ浮かんでいる。

私と姉が祐太郎と同じくらいの年の時に、もし今の祐太郎のような食べ方をしようものなら、即座に食卓から退場させられたことをふと思い出し、あれだけ頑なだった母も年齢を重ねて価値観が変わったのだろうかと食事の手を止めて母の顔を見た。

母はかつてとても美しかった。色白で艶やかな皮膚をした卵型の顔には、少女のような丸く大きな潤んだ瞳と、それとは逆の印象を与える高貴さと神経質さを漂わせる高く形の良い鼻と薄い唇があった。また、母の着こなす服、髪型、醸し出す雰囲気もまた彼女の持つ上品さとかわいらしさを際立たせていた。

私が小学校の時の授業参観では、周りの子どもたちが、自分の親が来ているかどうかを何度も確認するためにしきりに後ろの父兄席を気にしており、母が教室に来ると、

「あの綺麗なお母さんは、誰のお母さんなの?」

とひそひそと話していた。私はあえてそれが自分の母だと自分から言うことはほとんどなかった。授業参観のときであっても、浮かれて友達と話したり、何度も後ろを振り返ったりして母が来ているかどうかを確認することは許されていなかった。

その美しかった母も気づけば60歳をすぎており、ゆで卵のように張りがあって艶やかだった頬はこけ、愛らしさを振りまいていた大きな瞳は落ちくぼんで影を落とし、顔にはいくつもの皺が刻まれとりわけその眉間にある皺は深く、笑っているときでもまるで眉をひそめているかのように見える。

私は母の顔の中に私たちが生物である限り逆らえない老化とその先にある死が見え、急に底知れぬ恐怖に襲われた。母がこのままこの世界から消えてしまったら、自分の中の土台が崩れていくような言いようのない不安感を感じて一度、深く呼吸をした。

母は一人だけ夕食を素早く済ませ、自分の使った食器を片付けながら、

「私は、集会に行く準備をするわ。サリー、私と久しぶりに一緒に行くかしら」

私は、すぐに答えなければと思いながらも、体が硬直していることがわかる、心臓の鼓動が速くなり、胸がつかえたようになって言葉がでない。すがるような気持で隣に座る姉を盗み見たが、姉はまるで母の台詞など聞こえていないかのように無表情で祐太郎と食事を続けているだけだった。

「今日は、やめておく・・・」

とやっとの思いで出た私の声は擦れて震えていた。

「あら、そう」

と答える母の顔は直接見なくてもどんな表情をしているかは私には痛いほどわかる。軽蔑と侮蔑と憐れみに満ちた目で眉間に深い皺を寄せて私を見下ろしているのだ。この場から瞬時に消えてしまいたい衝動に駆られながら、私は母がダイニングから出ていくまでじっと息を潜めて耐えるしかなかった。母は自分の食器だけを洗い、ダイニングから出て、自分の部屋へ行き出かけるための身支度を整えに行った。10分ほどで部屋から出てきた母は、その華奢な身体を上品な淡いベージュのスカートスーツで包み、その顔にはうっすらと化粧を施してあった。

「じゃあ、いってきます」

母は祐太郎の顔を両手で包み込んで覗き込むようにして言い、私と姉を完全に無視して家を出て行った。母が家を出た後、しばらく私と姉は無言で食事を続けた。姉も私もお互いにあえて母の話をするのを避けることで、自分の乱された心に冷静さを取り戻そうとしていた。

「お風呂、沸かそうか、夕食の片づけをして久しぶりに一緒に入らない」

姉が下を向いたままポツリと私に言った。それを聞いた祐太郎が、

「アリーといっしょ、おふろ、あいるー!ぼく、アリーといっしょ!」

とはしゃぎ始めていた。

「そうだね、じゃあ私は食器を洗うから、お姉ちゃんはお風呂の準備をお願い」

といってお互いに役割を決めて3人でお風呂に入る準備を始めた。私は食器の片付けが終わり、姉は祐太郎の着替えの準備などをしている。私は一度部屋に戻って自分の着替えを取り、スマホをチェックすると、佐伯さんから、メールが来ている。

そのメールには今日行った実験のことと、現在二人で執筆中の論文に関する修正案の概要が書き込まれていた。執筆中の論文では、実験データはすべて出揃い、論文としても最後の考察の部分の大詰めに来ていた。彼はこの分野で彼と同じように博士号を目指す大学院生の私のためにもできるだけ早く論文を出さなければと意気込んでいた。彼との関係は、私の彼に対する尊敬と憧れから始まったし、彼は私に研究の才能があると言って自分の手で私を一流の研究者に育てたいと言っていた。もちろん、その関係は一部では恋人同士のそれであったけれども、別の面では彼を指導教授のように感じ、窮屈さを覚えることもあった。論文の修正の意見は文章にして書き出すには複雑すぎて時間がかかると思ったので、私は彼に少し電話をして彼の修正案に対する私の意見を述べた。彼もおおむね私の考えに賛同し、その論文における考察の方向性を決めることができた。彼は最後に、

「論文はその方向性でいこう、君は久しぶりの帰省なのだから、ゆっくりしてね」

と言って電話を切った。なんだか、恋人同士というよりも、やはり指導教官と生徒のような気がして、私が帰省して感じた事などは佐伯さんに話すことができない自分に少しだけ寂しさを感じた。

 

無知がもたらす奔放さに対する狭量

恋愛 日常

私はこの時代の価値観からすると「奔放な人」に分類されるかもしれない。

 

私はこれまで、付き合っている人がいても、結婚をしていても、なんら悪びれることもなく自由に恋をしてきた。しかも、恋をしていることを相手に悟られても平気だったし、むしろ自分から報告することもあった。

 

相手は寛容で私をいつも自由でいさせてくれた。

彼らは、「君という人は困った人だ」と言いながらも、私を自由にする。

 

私の恋心は一瞬のきらめきであるから。

私の恋は、絶え間なく薪をくべなければすぐに消えてしまう小さなたき火と一緒だから。

 

恋をすることに慣れている私は、その火をコントロールする術を身に着けている。

恋をしても自分から薪をくべたりはしない。そして、その淡い恋心は時間と共にその色はあせていき、実らない恋特有の甘い痛みを私の心に残していく。

 

私はその甘い痛みに強い快楽を感じる

 

だけど、あなたは私に対する無知ゆえに私の恋をとても恐れている。

 

あなたはいつも物静かで、上品な佇まいで私のそばにそっと立っているのに。

あなたのその深い知性と思考力を表現するための声はとても落ち着いているのに。

 

それなのに、その心にはあなた自身でさえ飼いならさすことができない激情が確かに存在している

 

あなたの激情は私の恋に寛容になることができない。

そして、これまでにないその方法で私を揺さぶる。

私はとまどう。

どうしてダメなの。なぜわかってくれないの。

 

だけど、これはこれでいい。これまでの私は常に振りまわす側で、振り回される側に回ったことがなかったから。

このもどかしさと、あなたを失いそうな苦しみと、私を自由にさせまいとするあなたの強い独占欲も私にとっては甘美な快感に変わる

だから、いったでしょう。私たちは何があっても離れることができないし、苦しみさえ甘い快感に変えることができるんだって。

みんなのためのあなた

恋愛 日常

家に帰れなくなって一週間

あなたは、それ以来、1日2時間も眠っていない。

その短い仮眠を取るのは、設置された指揮所の机の上。

 

そろそろ睡眠不足と疲労からくる幻覚を見るころよ。

お願いだから休んでよと言いたいのを私は我慢する、それが不可能なことを私は知っているから。

 

国民が何かで困っている状況では、

国民の食事と睡眠と衛生をできるだけ早く準備してあげるのがあなたの職務。

たとえ、自分が寝ていなくても、食べていなくても、お風呂に入っていなくても。

 

あなたはあなたの職務を完遂するしかない。

というより誰かが困っているなら、自分のことなんか考えないのがあなたよね。

あなたはよく言っている、

「困っている人がいたら、自分でできることがあればなんだってしてあげたい」

 

先週の日曜日、着替えだけ取りに家に帰れたと言っていたあなた。

そのほんの少しの時間に電話をくれたあなた。

私の声を聞くだけで力が出てきてもう少し頑張れると言うあなた。

 

だったら、もう、私の声なんて聞かせてあげない。

私の声があなたを駆り立てるなら、私はあなたに聞かせたくない。

もう駄目だと言ってよ、少しだけ休ませてと言ってよ、疲れたと言ってよ、

 

あなたが何も言わなければ言わないほど、あなたの疲労と苦しみが私に流れ込んでくる気がする

 

以前、今と同じような状況になったとき、

私が、あなたを心配しすぎて苦しい、といったじゃない。

そしたら、あなたは

「じゃあ、僕のことは死んだと思っていて」

と言われて私はなんてひどいことを・・・と泣いてしまったよね。

だけど、今は分かる、だから、あなたに言われたとおり、そうしようとしてる。

 

あなたは世界からいなくなっているって思っておく。だけど、本当はちゃんと帰ってきてほしいのよ。

 

私は静かに待ってるね。

 

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