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第3回

痛むこめかみを軽く押さえながら、病院で処方されている片頭痛の薬を口に入れ、先ほどの新幹線で買ったペットボトルのミネラルウォーターで喉に流し込む。この片頭痛の薬は保険が効いても一粒1000円前後の高い薬だ。しかし、私の頭痛を緩和する効果があるのはこの薬しかない。しかも、頭痛が始まって30分以内に飲まないと効果がない。私は20歳前後からひどい片頭痛に悩まされ、市販の頭痛薬は全く効かなかった。ひどい時は、痛みで嘔吐し続け、トイレから一日中でることができないまま痛みと孤独と絶望感に襲われた。何度も病院を変え、あらゆる検査をおこなった。脳腫瘍さえ疑われ、CTスキャンMRIもおこなった。しかし、原因は分からず、いまだに何かのきっかけで頭痛がおこる。

腕時計に目をやる。頭痛が始まってからまだ10分と経っていない。ふう、とため息をつき、もう一度ベッドに仰向けになって、スマホを見る。

新幹線に乗っていたときに、佐伯さんからもらったメールにまだ返事をしていなかった。頭が痛いせいか、返事を書き始めるが文章がまとまらない。

佐伯さんに出会ったのは、3年前、私が大学院に入学した年の、私にとっては最初の学会の時だ。実際に会ったのはその時が初めてだったが、私は佐伯さんのことをその1年前から知っていた。私が卒業論文のための研究をおこないはじめ、自分が専門にしようとしている研究分野の論文を毎日読んでいた時に、すでに佐伯さんの発表した論文に出会っていた。私が英語の論文を読んで理解することにとても時間がかかり、必死だった卒論生の時、6歳年上の佐伯さんはすでにその研究分野で素晴らしい業績をあげて博士号を取得し、ドイツで研究生活を送っている最中だった。数本に渡って発表されていた佐伯さんの研究論文は、イギリスやドイツなどの国際科学雑誌に発表されていた。私は彼に直接会う前から、彼の研究における着眼点と論理力のすばらしさに、尊敬の念と淡い恋心を抱いていたように思う。

学会参加者が300人も一斉に集まる夜の合同懇親会がおこなわれていた大きな会場で私は彼に出会った。同じ分野で研究をおこなう大学の教授、官民の研究所の研究員、また研究者を目指す大学院生たちが集まって研究発表をする学会では、自分のフルネームと所属機関が書かれたバッジを胸に付け、さまざま研究者たちと交流を深める。私は大学院の一年目で、研究者の知り合いもほとんどおらず、一緒に学会に参加していた所属する研究室の教授とはぐれてしまい、広い会場であてもなく歩き回り、久しぶりに履いたハイヒールで足は痛くなっていた。仕方がないので、会場の端に置かれているバーカウンターでワインを頼み、ビュッフェ形式で置かれている夕食を少し食べようと、テーブルに行くとほとんど何も残っておらず、大皿の蓋を開けては中身が残っていないのを見て元通り蓋を閉めていた。ふと、横を見ると数メートル離れたところに、私と同じように片手に持つ取り分け皿は空っぽで、大皿を開けては占めている男性がいた。彼もふと目を上げて私に気づき、人懐っこそうな笑顔をこちらに向けて、

「もう、何も残ってないですね」

と私に言った。

細身で身長の高いその人は一番上のボタンを一つだけ外したシンプルな白いシャツと上品なグレーのパンツが良く似合っている。理系の研究者はおうおうにして服装に無頓着な人が多いが、この人は自分に似合うものを知っている洗練された人だと思った。

「本当に、何も残っていなくて、先ほどからワインしか飲んでいません。」と私は少しおどけて彼に笑いかけた。彼は私に向き直り、私は彼のネームに目をやった。

東京大学 微生物研究室 研究員 佐伯 涼」。

「さえき りょう」とその漢字を心の中で読んだときに、その人が苦労して読んだあの論文の筆頭執筆者である「Ryo Saeki」と同性同名であることに気づいた。しかし、彼はドイツで研究をしているはずではなかったのか。彼を見ると、彼も私の胸のネームを見ている。

「永井さゆりさん? 今、大学院の一年生なのですね」と微笑みかけている。

私は「はい」と言い、少しの沈黙の後、思い切って、彼に尋ねた。

「もしかして、Royal society誌に論文を発表されているSaekiさんですか」

彼は、少し驚いた顔をしたが、すぐにまたさきほどと同様の知的で穏やかな笑顔を浮かべて、

「そうですよ、もしかして僕の論文を読んでくれたのですか」

と言った。私は、

「はい、本当に佐伯さんのあの論文は素晴らしくて、何度も読みました」

声が上ずっているのが自分でもわかった。それを彼に悟られるのが恥ずかしくて、少し黙ると、彼は私の緊張を解きほぐすように、私の研究テーマを尋ね、初めての学会はどうか、なぜ自分の論文を読んだのか、など様々なことを話しかけてくれた。私たち二人はまるで広い学会会場の壁の花になったみたいに、人があまりいない角の壁にもたれかかり、食べ物の入っていない皿を近くのテーブルに置いて、ワインだけをもってずっと話していた。彼は、ドイツでまだ何年かは研究をするつもりだったが、どうしてもうちの研究室で君に研究してほしいと熱烈に口説かれて、急遽、先週、日本に戻ってきたのだと話をしてくれた。

「まだ、日本語にあんまり慣れてなくて、今日の発表は日本語だったのに、あんまり聞き取れなかったんだ」

と彼は恥ずかしそうに笑っていた。その笑顔を見たとき時、私より年上で、研究者としては私が絶対に手の届かないところにまで上り詰めているこの人のことを、なぜだか、なんてかわいいのだろう、と思った。

そのあと、合同の懇親会の最後まで彼と二人で話し、分野が近い私たちは次の日以降におこなわれる研究発表の会場もほとんど同じだった。私が学会で初めて発表するために演題に登った時、会場で私を見つめる多くの目に緊張してめまいがした。しかし、そのすぐ後に、私はその会場の真ん中の一番後ろで彼が笑顔で私を見つめているのを見つけて、一気に緊張がほぐれていくのを感じた。彼は私の発表のあったプログラムのすぐ後の休憩時間に私に駆け寄ってきて、

「永井さんの研究発表とても良かったよ。研究内容もそうだけど、これが初めての発表なんて誰もきっと思わないくらい、わかりやすく説明していたし、質疑応答もすごく堂々として、答えていてすごかったよ」

と言ってくれた。私は彼の言葉を聞いて、胸が熱くなり、涙が目に溜まってくるのを感じ、慌てて、「次の発表がもう始まっちゃうから、私たちも会場に入らないと」と彼を促した。

彼の研究発表も初めて聴くことができた。それまでは、論文でしか見ることができなった研究内容を彼自身が説明してくれている。私は、その時、言いようのない胸の高揚感を覚えた。

学会が終わり、学会会場の最寄りの駅は全国から集まってきた研究者たちが帰路に着くため、ごった返していた。遠くから、私の名前が呼ばれた気がして、あたりを見回したが、知っている顔はそこにはなく、もう一度前を向いてホームに並んで電車を待っていた。

「永井さん!」次ははっきりとその声が聞こえた。あたりをもう一度見回すと、佐伯さんが10mほど離れた人混みの中で動きが取れないのか、何度かジャンプをして頭を出して私を呼んでいる。私は車輪のついたスーツケースが人に当たらないように注意をしながら彼の方に歩く。彼も人混みをかき分けて私の方に近づいてくる。やっとのことでホームを移動し、

「佐伯さん、どうしましたか」と聞くと、

「永井さんに、僕の名刺を渡すのを忘れていて、どうしても渡したかったのです。研究で何か相談にのれることや、手伝えることがあったら、この名刺のメールアドレスにいつでも連絡ください」

と言って、名刺を渡された。私は名刺をもらったお礼を丁寧にしたあと、声トーンを上げて、

「それはそうと、ものすごい混みようですね」と笑った。彼は少し困った顔で、

「ほんとだね、少し時間を空けた方が楽かもしれないね。永井さんも僕と一緒に少し時間をずらしてゆっくり一緒に帰りますか?」

といたずらっ子のような屈託ない笑顔で私に言った。私は彼に対する憧れが、現実に存在する人への恋心に変化していくのを感じていた。