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第4回

その日、学会参加者たちの帰宅ラッシュを避けようと、私たち二人は、まだ肌寒い3月末の京都で2時間ほど散歩をした。京都の石畳はハイヒールには決して優しくない。時々、石畳の隙間にヒールが挟まってつまずき、私は恥ずかしくて下を向いて歩いていた。私の前を歩く彼はそんな私などまるで目に入っていない様子で、

「僕は方向音痴だから、今どこに向かっているかわからない、だけど、なんとなくあっちの方向になりかありそうな気がする」

という彼の後ろ姿を見つめながら、あてもなく2時間も歩き回った。結局、彼の言うところの「なにかありそう」という予想は外れていて、そこには同じような住宅地が続いているだけだった。慣れないハイヒールで靴擦れができてとても痛かったけれども、彼の口から語られるドイツでの研究生活やこれから計画している研究についてずっと聞いていたかった。あたりが暗くなってきたため、

「そろそろ帰ろうか」

と彼に促され、先ほどまで学会関係者でごった返していた駅に戻ると、もうほとんど人はいなくなっていた。彼も私も東京に住んでおり、東京へ戻る新幹線も隣の席に座り私たちはビールを飲みながら語り合いゆっくりと帰宅した。そのあと、数か月して、頻繁に研究の相談などをしながら食事をするようになり、どちらかともなく付き合うようになった。

彼は研究論文の執筆においては論理的思考を得意とするタイプの研究者ではあったけれども、普段の生活ではとても寡黙だった。私は彼の口から私に対する恋心や好意の言葉を聞きたかったけれども、彼はそういった感情を表現する言葉をあまり知らない人だった。

佐伯さんに、メールの返信をしなければ、と思いながら、眠気を誘う薬の効果もあって私はそのまま眠りに落ちた。

1階から聞こえるバタバタと廊下を走り回る子供の足音で目が覚める。あたりは少し薄暗くなっており、頭痛は感じない。時計をみると17時すぎになっていた。1時間ほど眠っていたらしい。まだはっきりとしてこない頭で佐伯さんに、実家に無事に到着したことだけを返信し、身なりを整えて1階に降りていく。

リビングのドアに手をかけると、内側から先に引かれ4歳になる姉の息子が、私に向かって満面の笑みで、容赦なく全体重をかけて飛びついてきた。

「アリー、あたま、いたいいたい らいじょうぶー」

私は少し後ろによろめきながら、

「ありがとう、もうよくなったわ。久しぶりね、祐太郎。また大きくなったわね、もう、サリーは祐太郎を抱っこできないなぁ」

というと、祐太郎はさらに笑顔で抱きつきながら私を後ろに押して壁際に追い詰めてくる。姉の息子は本当に大きい。身長が高く、見るからに頑丈そうな体躯をもっているため、まだ4歳なのに小学校2,3年生に間違えられることがよくある。しかし、まだ彼はうまく発音することができない。「サ」の子音を発音することができず、姉が何度練習させても、私を呼ぶときに「サリー」ではなく「アリー」になってしまう。それに、彼が発する言葉や会話は2,3歳の子ども程度であるように感じる。また、祐太郎は1から10までの数字を何度教えても順番に言えない。姉がお風呂で毎日繰り返し、1から10まで順番に数えるように教えても、3の次が7になってしまったり、1の次に6が来たりしてしまう。私は祐太郎の知能を調べてもらったことがあるかを尋ねると、知能指数自体は同じ年齢の子どもより少し上だったと悲しそうに姉が言ったのを覚えている。姉は祐太郎の言語の遅れと数字の系列が覚えられないことをとても気にしており、大きな病院を何件も渡り歩いて検査をしたが、原因がわからなかった。言語だけでもどうにか改善しようと、祐太郎には専属で言語聴覚士を付けてトレーニングさせていたし、姉も教師を休職しているので、毎日、教師特有の熱心さで長男に対して発音練習をさせ、言語を覚えさせようとしていた。

姉がリビングの隣の台所から、

「サリー、頭痛どう。少しは良くなったの」と声をかけてくる。

「うん、もう大丈夫」と言いながら台所に行くと、姉と母が二人で夕食の準備をしている。母はネギを刻みながら、

「今日、私、集会があるから18時には出かけなければならないの。その前に夕食にしましょう、時間がないわ。さゆりも手伝ってちょうだい」

と少し不機嫌そうに言う。姉は母の隣で青菜を炒めながら母と私の会話など耳に入っていないかのようにフライパンの上の青菜を見つめている。

「わかった」

と小さく言い、姉に何をすればいいか指示をもらって夕食の準備を手伝う。母の料理はいつも手が込んでいて時間のかかる料理ばかりだ。今夜のメインは母の得意な様々な春野菜の天ぷらで、その他にも、タケノコの炊き込みご飯、銀たらの煮付、庭で取れた青菜と炒め物、吸い物などが準備されていく。料理を盛る皿の選択と盛り付け方は母しか触ることができない。母はこだわりが強く自分の作った料理を最も美しく美味しく見せるための美学をもっていた。彼女の料理は常に手が込んでおり、調理方法、味付け、盛り付け、すべてが主婦のレベルを超えていた。母はその完璧さを娘である私と姉にその幼少期から求めてきた。  

私の物心がつくようになった5,6歳の頃になると母は食事の仕方、テーブルマナーなどを私にとても厳しく教え、さらに小学校にあがると様々な料理方法、盛り付け方、食器の選び方などを私に教えた。あの時、私はおなかがとても空いているのに、テーブルへの付き方、椅子の座り方、食べる順番、食事中の視線の使い方、顔とお皿の距離などできないところがあると、なんどでもやり直しをさせられ、目の前に並ぶ美味しそうな食事の数々をすぐに食べることができない切なさに何度も泣いた。大人になってから思い出すと空腹くらいでなぜあんなに泣いていたのかと思うが、5歳のわたしはこの世の終わりのような悲しみを感じていた。

料理がすべて済み、母の盛り付けも終わって、母、姉、祐太郎、私の4人で広いダイニングテーブルを囲む。私は、

「母の料理はいつもとても美味しそうね、久しぶりだからとても楽しみ。いただきます」というと。母は無言で両手を胸の前で合わせ、うつむき、唐突に祈りの言葉を唱える。私と姉は、母が作り出すその苦痛に満ちた空間と自分が触れ合わないように、椅子に真っすぐに座り、夢中で祈る母が自分の視界に入らないようにしながら、無言で料理を自分の皿に取り分けていく。