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第5回

小説

 

祈りの終わった母は、すでに夕食を食べ始めている私たちを無視するかのように、

「さあ、いただきます」

と、はっきりとした声で誰に向かって言うのでもなく宙を見つめて言った。

祐太郎は、夢中で夕食を食べ続けている。この子はまだ弱冠の4歳であるにも関わらず、ものすごい食欲で大人である私たちと同量かまたはそれ以上に食べることもあった。そのせいか、身長も確かにかなり大きいのだが、その肉付きは肥満とまではいかないまでも太り気味であることは確かだった。母はがつがつと夕食を頬張る祐太郎を見て、

「祐太郎、美味しいのね、喉に詰まらせないようにゆっくり食べなさいね」

と言う。その表情には優しげな微笑みさえ浮かんでいる。

私と姉が祐太郎と同じくらいの年の時に、もし今の祐太郎のような食べ方をしようものなら、即座に食卓から退場させられたことをふと思い出し、あれだけ頑なだった母も年齢を重ねて価値観が変わったのだろうかと食事の手を止めて母の顔を見た。

母はかつてとても美しかった。色白で艶やかな皮膚をした卵型の顔には、少女のような丸く大きな潤んだ瞳と、それとは逆の印象を与える高貴さと神経質さを漂わせる高く形の良い鼻と薄い唇があった。また、母の着こなす服、髪型、醸し出す雰囲気もまた彼女の持つ上品さとかわいらしさを際立たせていた。

私が小学校の時の授業参観では、周りの子どもたちが、自分の親が来ているかどうかを何度も確認するためにしきりに後ろの父兄席を気にしており、母が教室に来ると、

「あの綺麗なお母さんは、誰のお母さんなの?」

とひそひそと話していた。私はあえてそれが自分の母だと自分から言うことはほとんどなかった。授業参観のときであっても、浮かれて友達と話したり、何度も後ろを振り返ったりして母が来ているかどうかを確認することは許されていなかった。

その美しかった母も気づけば60歳をすぎており、ゆで卵のように張りがあって艶やかだった頬はこけ、愛らしさを振りまいていた大きな瞳は落ちくぼんで影を落とし、顔にはいくつもの皺が刻まれとりわけその眉間にある皺は深く、笑っているときでもまるで眉をひそめているかのように見える。

私は母の顔の中に私たちが生物である限り逆らえない老化とその先にある死が見え、急に底知れぬ恐怖に襲われた。母がこのままこの世界から消えてしまったら、自分の中の土台が崩れていくような言いようのない不安感を感じて一度、深く呼吸をした。

母は一人だけ夕食を素早く済ませ、自分の使った食器を片付けながら、

「私は、集会に行く準備をするわ。サリー、私と久しぶりに一緒に行くかしら」

私は、すぐに答えなければと思いながらも、体が硬直していることがわかる、心臓の鼓動が速くなり、胸がつかえたようになって言葉がでない。すがるような気持で隣に座る姉を盗み見たが、姉はまるで母の台詞など聞こえていないかのように無表情で祐太郎と食事を続けているだけだった。

「今日は、やめておく・・・」

とやっとの思いで出た私の声は擦れて震えていた。

「あら、そう」

と答える母の顔は直接見なくてもどんな表情をしているかは私には痛いほどわかる。軽蔑と侮蔑と憐れみに満ちた目で眉間に深い皺を寄せて私を見下ろしているのだ。この場から瞬時に消えてしまいたい衝動に駆られながら、私は母がダイニングから出ていくまでじっと息を潜めて耐えるしかなかった。母は自分の食器だけを洗い、ダイニングから出て、自分の部屋へ行き出かけるための身支度を整えに行った。10分ほどで部屋から出てきた母は、その華奢な身体を上品な淡いベージュのスカートスーツで包み、その顔にはうっすらと化粧を施してあった。

「じゃあ、いってきます」

母は祐太郎の顔を両手で包み込んで覗き込むようにして言い、私と姉を完全に無視して家を出て行った。母が家を出た後、しばらく私と姉は無言で食事を続けた。姉も私もお互いにあえて母の話をするのを避けることで、自分の乱された心に冷静さを取り戻そうとしていた。

「お風呂、沸かそうか、夕食の片づけをして久しぶりに一緒に入らない」

姉が下を向いたままポツリと私に言った。それを聞いた祐太郎が、

「アリーといっしょ、おふろ、あいるー!ぼく、アリーといっしょ!」

とはしゃぎ始めていた。

「そうだね、じゃあ私は食器を洗うから、お姉ちゃんはお風呂の準備をお願い」

といってお互いに役割を決めて3人でお風呂に入る準備を始めた。私は食器の片付けが終わり、姉は祐太郎の着替えの準備などをしている。私は一度部屋に戻って自分の着替えを取り、スマホをチェックすると、佐伯さんから、メールが来ている。

そのメールには今日行った実験のことと、現在二人で執筆中の論文に関する修正案の概要が書き込まれていた。執筆中の論文では、実験データはすべて出揃い、論文としても最後の考察の部分の大詰めに来ていた。彼はこの分野で彼と同じように博士号を目指す大学院生の私のためにもできるだけ早く論文を出さなければと意気込んでいた。彼との関係は、私の彼に対する尊敬と憧れから始まったし、彼は私に研究の才能があると言って自分の手で私を一流の研究者に育てたいと言っていた。もちろん、その関係は一部では恋人同士のそれであったけれども、別の面では彼を指導教授のように感じ、窮屈さを覚えることもあった。論文の修正の意見は文章にして書き出すには複雑すぎて時間がかかると思ったので、私は彼に少し電話をして彼の修正案に対する私の意見を述べた。彼もおおむね私の考えに賛同し、その論文における考察の方向性を決めることができた。彼は最後に、

「論文はその方向性でいこう、君は久しぶりの帰省なのだから、ゆっくりしてね」

と言って電話を切った。なんだか、恋人同士というよりも、やはり指導教官と生徒のような気がして、私が帰省して感じた事などは佐伯さんに話すことができない自分に少しだけ寂しさを感じた。