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第7回

祐太郎と二人になった浴室には祐太郎の嗚咽に近い咳だけがこだまして響いている。

 

その小さな肩は依然として震えており、私は祐太郎が2歳ころから大好きだったアニメの主題歌を何事もなかったかのように、その小さな耳元に口を寄せてささやくように歌い始めた。

 

その祐太郎の大好きなアニメには、毎回、その森に住む友達に意地悪なことをするキャラクターが登場し、その友達が「助けて!」とヒーローを呼ぶと、大急ぎで皆の森のヒーローが飛んできて意地悪なキャラクターを成敗し、最終的には意地悪をしていたキャラクターも、「美味しいものを独り占めしたかった」とか「自分も一緒に遊んで欲しかったのに声をかえてくれなくて寂しかった」など、意地悪なことをした理由を話して、もうしないと反省し、みんながハッピーエンドで終了する子供向けのアニメだった。

 

その主題歌の歌詞はヒーロは恐れずにいつも何事にも立ち向かい、飛んでいけるんだと繰り返す。祐太郎はこの歌がとても好きで、機嫌が良く一人でブロックなどを組み立てて遊んでいるときにはこの歌を口ずさんでいた。

私が祐太郎の耳元でその歌を歌い始めて少しすると肩の震えが少し収まってきたかのように感じた。

 

「祐太郎、私、寒くなってきたからもう一度お湯に入ろうか」

 

というと、祐太郎はコクンと頷いた。祐太郎を後ろから抱きしめるようにしてバスタブに入り、もう一度、そのアニメの主題歌をわざと元気な声で歌い始めると、祐太郎は不思議そうに私の顔を振り返って見ている。

 

その顔には少し血の気が戻ってきたように見えたけれども、私は祐太郎と目を合わせず、少し視線を上方遠くにはずし、バスタブに浮かべてあったアヒルをマイクに見立てて持ち、さらに熱がこめて舞台で歌う歌手のように首を傾げ、体全体でリズムを表現して熱く歌っていると、祐太郎も徐々に体全体で揺らし、途中から一緒に歌い始めた。

 

そうして、祐太郎の体と髪の毛を洗って風呂場を出て、リビングに入ると、ソファに座って天井を仰ぎ見ていた姉が祐太郎と私に気づいてこちらを向く。

「祐太郎、サリーとお風呂楽しかった?」

「うん!たくさん、アリーと、うたったよー」

「そう、よかったわね」

目を細め、慈愛に満ちたまなざしで祐太郎を見つめ、その濡れた髪の毛をやさしくタオルで拭いている。私は先ほど見たことがすべて嘘であるのかのような錯覚に陥った。

「サリー、祐太郎の歯磨きをさせて、寝かしつけてくるわね、そのあと、明日の病院のこととか話そうか」

祐太郎の髪の毛から目を離さず静かに姉が言う。

「ごめん、ちょっと今日は20時から同級生と会う予定なの」

「そう、わかった。じゃあ、帰ってきてからでいいわよ」

と言いながら姉は祐太郎に歯磨きをさせるために、洗面台に向かっていった。

 

友達との約束などあるわけもなかった。ただ、いるだけで何か黒いドロドロしたものに足元から浸食されていくような、この家からとにかく一度抜け出したかった。

私は、2階の部屋に戻り、薄手のコートとスマホをもって外に出た。東北は夜になると5月であっても5度程度まで気温は下がり、玄関の外に出た瞬間、先ほどまでバスタブで温まっていた体全体を冷気が包んでいく。

 

身震いをして、すがるように空を見上げたが、黒い空にはどんよりとした黒い雲が重く立ち込め、夜の空に光と輝きを与える月も星も完全に隠している。寒さでかじかみ始めた手でスマホを取り、佐伯さんに電話をかける。

「ププププ、、、、、、只今、お客様のおかけになった番号は圏外であるか、電源が入っていない、、、」

音声ガイダンスの途中まで聴いてすぐに電話を切った。

 

彼のいる実験室はいつも携帯電話が圏外になってしまうため、彼の実験中はいつも連絡がつかなかった。時計を見ると19時を少し回ったところで、佐伯さんは何か約束がない限りは深夜まで実験室にいることを常としていたらからこの時間帯に何度電話をしてもつながらないことは明白だった。

 

繋がらないスマホを握りしめて、もう一度空を仰ぐ。見上げた空は先ほどと同様の真っ暗な空が広がっているだけだったが、下の方に視線を移すと、空と地上との一部の境がここから数キロ離れた繁華街のネオンのオレンジ色で明るくなっているのが見えた。