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人類の利益のために行われる許された殺戮

早朝の電話で目が覚める。普段は寝るときは消音にしているが、前日に容体が悪いサルがいるときには、いつ呼び出されてもいいように、着信に気づくようにしている。

 

やはり、という気持ちでラボに向かう。

 

世界最高レベルのバイオセーフティレベルが認められたこの施設では、死に関わる程度の重篤な病気を起こし、容易にヒトからヒトへ感染を起こし、かつ有効な治療法・予防法は確立されていない毒性や感染性が最強クラスの病原体を扱う。もちろん、この施設に入れる人間も専門的に教育されたごく少数の研究員に限られている。

 

全裸になり、薬液シャワーを浴び、手術着の上から効果の異なる2重の防護服とシールドをかぶる。防毒マスクを装着すると、呼吸に合わせて完全排気システムのファンが作動し、自分の呼吸音さえ不気味な工業音に変わる。全く窓のない、巨大な施設の中は細かく仕切られ、その仕切りは潜水艦の扉にそっくりな厚さ30センチを超える完全機密性を持つハッチが取り付けられている。危険な病原菌を外に漏らさないために常に内側の扉が陰圧になっており、ハッチを開ける際には、扉に取り付けられている圧力メーターで確認する。私は、固く締められたハッチーのレバーを何度も手で回して重い扉を開けて進んでいく、手術室に行くまでには7枚ものハッチを開けなくてはならない。手術室に着くころにはレバーの回しすぎで、手が少し痺れている。

手術台の上にはガリガリにやせ細ったNo.706の姿がある。すでにケタキシで浅い麻酔はかけられているが意識もあり、目も見えている。ぼんやりとした目でNo.706は見慣れた私の姿を認めて少し安心したような表情を浮かべる。

「では、始めます」

私はアシスタントに指示を出し、No.706を文字通り切り刻んでいく。チタン製の開胸器で肋骨を取り除き、今後の実験の精度のため、ぎりぎりまで、生かしたまま、すべての臓器を取り出す。肺、腎臓、肝臓、すい臓、結腸、大腸、小腸、膀胱、精巣、それらを生理食塩水の入ったバイオパックに保存していく。心臓しか残っていない空っぽな身体になったNo.706はそれでも生きている。最後に動脈をカットし、体中の血を抜いていく。失っていく血と共に急激に体温が下がっていくのがわかる。

 

「摘出が完了しましたので、麻酔量を致死量でお願いします」

 

そう言って、私は、No.706の首の後ろに手を差し入れ、上半身を起こさせ、一つだけポツンと残った心臓を何度も押して最後の一滴までその血を回収しようとする。私に支えられた頭をこちらに向けたNo.706のその目からは悲しみも苦しみも感じられず、今までと同様、まっすぐな目で私を見ている。このとき、憎しみと怒りに満ちた目で私を見てくれたのなら、私を憎み、私に咬みつき、私を殺そうとしてくれたなら、どんなに楽なのだろう。

 

絶対に動けないほどの麻酔を自ら投与しておきながら、そんなエゴ丸出しの私の願いなど一生かなえられることはない。

 

来た道と同じように連なる重いハッチを開けて、私を守る重い装具をすべて脱ぎ捨てて全身を滅菌し、外に出る。空を見上げると星が輝いているのが見える。私は急にあの人に会いたくなる。

生き物の命を奪う殺戮者でもある私を、

「許す」

と、あの思慮深く静かな口調で言ってほしい。

片手にメスをもった私の全身が赤黒い血で足元から覆われていく悪夢をみる私の横で、

「あなたはちっとも汚れてなんかいないです」

と、あの人の包み込むような穏やかさで言ってほしい。

 

スマホを取り出して、彼の電話番号を表記させる、時刻は深夜を回っており、私はついに発信ボタンを押すことができず、そのまま空を仰いで目を閉じ、冷たい外気が私の肌を包んでいくのを静かに感じていた。